第18回 瀬戸 親
今回、リレーエッセイの執筆を依頼されました瀬戸 親と申します。
中部高校を昭和57年に卒業した34回生、51歳です。
今年平成27年は昭和90年に相当するので卒業からもう33年が経過したことになります。
今日は私の昔語りにお付き合い下さいませ。
これを読んで下さる方々はもう忘却の彼方でしょうが、いろんな思いや期待を抱いて中部高校に入学されたと思います。
私の場合、中部高校のコーラス部に入りたい、というのが大きな理由でした。
私の出身中学は奥田中学校です。運動部が盛んな学校でしたから、コーラス部などは蚊帳の外、薄暗い木造校舎の音楽室でいつも盛り上がらない、うらぶれた雰囲気で活動していたのを覚えています。
部員は取りあえず寄せ集めみたいな感じでしたから、当然実力は貧弱です。目標はNHK合唱コンクール地区大会で賞を取ることですが、とても叶いません。大会では多くの中学からエントリーしてきますが、ピカイチの実力校は何といっても附属中学校です。人数も多いし、混声のハーモニーもとっても素晴らしい。いつも嫉妬に似た思いで彼らを見つめていました。
中3の夏、奥中から中部高校に入学しコーラス部に入部した憧れのソプラノの先輩からいただいたサマーコンサートのチケット、これが大きな転機でした。
コンサート会場は教育文化会館、午後からと夕方からの2回公演でしたが、彼女から「第一部の方が声に疲れが出てないだろうからそっちに来なさい」と言われました。
愛唱歌に始まり、メインステージが「おかあさんのばか」、これは幼くして母親を亡くした女の子の心情を綴った組曲で心が打たれました。
そして先輩方の素晴らしいハーモニーに感動し、もちろん指揮は若かりし頃の我が浅岡節夫先生。
「自分もこのグループの中に入って本当の合唱の感動を味わいたい!」私の合唱への原点はまさにこの瞬間でした…
念願かなって入学した中部高校ですが、期待通り部活は楽しく充実していました。もしコーラス部がなければ標準テストや進学模試に明け暮れた思い出しか残ってなかったでしょう。
こうして高校、大学を通してテノールとして歌い続けた青春時代でしたが、社会人になり多忙を極めるようになり、気が付けば合唱から四半世紀も遠ざかってしまいました。
しかし、2012年の中部高校コーラス部創立50周年ステージを皮切りに、2014年は至誠ホールでの浅岡会演奏会、今年は現役生に交ざってのOBOG合同ステージ「唱歌の四季」や上市の文化ホールでの浅岡先生指揮による「富山に伝わる三つの民謡」に参加したことで、再び自分の中で合唱に対する熱い思いが湧いているのを感じています。
すでに50歳を過ぎてしまいましたが、もう一度市中の合唱団に身を置いて混声合唱の楽しみを味わいたいと思っています。
少し気がかりなこと。
今年のサマーコンサートもミュージカルありの楽しい演出でしたが、出場した現役部員は総勢17人でした。
少子化のせいなのか合唱に対する熱が冷めてきているからなのか、部員の数が昔に比べてかなり減ってきていることを痛感しました。
私もOBOG合同ステージに人が足りないと言われて、急遽直前練習や本番に参加しました。
気恥ずかしさを感じながら自分の娘より若い人に交ざって歌いましたが、この時、現役部員あるいはお世話になったコーラス部のために少しでも出来ることと言えば一緒に歌うことなのだと感じました。
今後も恥ずかしさを堪えてOBOG合同ステージに乗れればと思っています。
そして、もう一つ。
昨年、浅岡節夫先生が顧問だった頃のOBOGが集って「浅岡会」が結成され、至誠ホールで演奏会が開かれました。演奏会の後、「また2年後に演奏会を開催しましょう!」といって別れました。
前号のリレーエッセイで内田(野々部)明美子さんも書いておられますが、この先、当時の顧問は違っても同じコーラス部出身としてポスト浅岡世代と繋がっていきたいという思いを私も抱いています。
それを実現するためにどうすればよいか?
多くの方々と方策を考えていきたいです。
このHPの管理人でありリレーエッセイをご依頼いただいた滝田一朗さん、freemlを介し創立50周年ステージのアナウンスに務めて下さった黒崎雅紀さん、浅岡会のけん引役である内田明美子さん他、まだまだ多くの方々に対し感謝の念に堪えません。
今後ともよろしくお願いいたします。
【自己紹介】
瀬戸 親(せと ちかし)
現 富山県立中央病院泌尿器科部長
医者の不養生の言葉の通り、数年前にひどく体調を崩してから、仕事一途の方針を放棄。
以後、小さい子供に交ざってのピアノ教室通い、鉄道ヲタク(乗り鉄、Nゲージ)に邁進している。