第3回 村田実貴生(96年卒)
我が里程標(マイルストーン)

村田君が高校を卒業して、早3年近くになる。

高校に入ったときは、「放課後すぐに勉強して、、、」等と
青い向学心を抱いていたのだが、
それを図書館や学習室ではなく、1─9H(現、計数教室)で実践していたのがいけなかった。

入学して1週間ほどはそれが続いたのであるが、
ある日、教室で一人で勉強しているところに、
前々から勧誘に来ていた先輩2人が教室に入ってきて、一悶着の末、何と両の二の腕をつかんで、直線距離10mの音楽室に連れ込んでしまったのである。
そして、「テナー部屋」に監禁。
(中略)(←管理者註:本人の文章です。)
結局、コーラスをすることになって、
早速、渡された楽譜が「○と△の歌」。
このインパクトは、なまじ中学校でコーラスをしていた者にとっては一層のものであったのだが、
ともかく、村田君の「地道な高校コーラス」の歴史はそこから始まったのである。

形式的には、コーラス部を救うために入部したということになるのだが、実際には、そういいながらも、コーラスというよりむしろコーラス部を、楽しんでいたのであった。

冬の間は誰も来ないからと言って、音楽室のストーブを机にしてスタンダードを堂々とやっていたのは、今から考えると多少問題があったとも言えなくないが、それを咎めるような芹川先生ではなかったというのも幸いしたのであろう(「授業中にチャートをしていたら取り上げられて、チャートが窓から放物線を描いた」という話は余りに有名であったので、そんなことは決してしなかったが)。

そんな村田君であったので、高校を卒業する頃には愛着も「ひとしお」なのであった。

(それから、村田君は東京で大学生活を送ることになるのだが、「大学にコーラスサークルが幾つもあって、どれがいいのか分からない」などという理由で、サークルに入りそびれる。
そのため、「大学とのつながり」をほとんど失ってしまったこともあって、ますます、「過去のつながり」を大切にせざるを得なくなる。
まして、大学1年の時はコーラスコンサートと試験が重なってしまって、行けなかったこともあって、「コーラス部には行けるうちに何とかしていく」と心に決める。)

「また、来たんけ」などと後輩に言われても、
懲りずに交通費650円×2=1300円を使って、一人だと寂しいので同じく辺境に住む鍛治君も連れて、富山に出てくるのはそのためである。

昨年からはNコンにも出るようになって、7月末まで試験のある村田君も練習を聴くことができるようになった。気合いの入り方もこれまでにはなかったようなレベルであるので、OBも応援だけだけれども気合いが入る。

若い歌声を聴いているだけで、出費が痛くなくなる(どうやら、覚醒作用があるようだ)。どこを直せば良いのか考えている脳みそは、高校時代の脳みそそのものである(∵卒業以後、新たなコーラスの知識はどこにも入っていないため)。
コーラス部に行けば、外見は「おじさん」になっても、中身は高校時代の私に戻っている(気がする)。
昔の先輩方もそのようなことを思いながらコーラス部をのぞきに来たのかと思いつつ、その先輩たちへの間接的な恩返しの気持ちもあって、今年は夏だけで1300円×5=6500円(差入抜)ということになってしまった。
来年は自動車にしようか、とペーパードライバーの村田君はちょっと考えている。

村田君は、来年の夏は「院試の勉強」で忙しいに違いないのだが、それでも「コーラスコンサート」にあわせて富山に戻ってくるに違いない。
なぜなら、コーラス部の新たな里程標を見届けるために。
そして、それをつくる小さな小さな石のちょっとした接着剤になれればと、もう卒業してしまって石にはなることのできない村田君は思うのである。


村田 実貴生(むらた みきお)
1993年4月〜1996年3月在籍。
「やさしい魚」「海のディベルティメント」「花によせて」の時代。
現在、東京大学教養学部基礎科学科数理科学コース3年。

1998.11.6